「何が見えるか」3/1 説教 マルコ8:22〜26

 ベドサイダの村に主イエスと弟子たちが到着するや否や、ひとりの盲人が連れられてきた。主イエスはその盲人の手を取り、村の外に連れ出された。なぜわざわざ村の外に連れていったのか。それは主イエスがこの盲人と一対一になって、癒しの業をなさるためであった。

 ではなぜ一対一になる必要があったのか。それは主イエスと一対一になって初めて「まことの癒し」は与えられるからである。これは私たちが救われた時と全く同じである。私たちは育った環境も違えば、時代も違う。しかしみんなイエス様と出会って、救われたのは同じである。私たちはイエス様と出会って初めて癒され、救われて、共に礼拝に集い、祈り合う友となることが出来たのである。『主のうちにこそ、すべてがある(讃美歌21 196番)』が歌う通りである。

 主はこの盲人に「まことの癒し」を与えられた。この「まことの癒し」とは“ただ目が見えるようになる”ということだけではない。“本当に見るべきものが見えるようになる”そういう魂の底から健やかにされる癒しがここで行われたのである。

 では“本当に見るべきもの”とはなにか。主イエスは唾をつけ、両手で目に触り、この盲人に「何か見えるか」とお尋ねになった。その言葉に促されるように、視力がだんだんはっきりしてきた時、この盲人は答えた。「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります」

 この時、この盲人が見たのは、主イエスの「歩いている姿」だった。木のように動かないのではない。主イエスは歩いておられるのである。生きて働いておられるのである。そのことを知った時、この盲人はさらに、何でも見えるようになった。私たちにもこの盲人と同じ「まことの癒し」が与えられている。本当に見るべき主イエスのお姿が、はっきりと示されている。その主イエスはただ遠くで見ておられるのではない。私たちの隣、いや前に立って私たちを導き、共に歩んで下さっているのである。

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