「人の目と神の目」1/26 説教 マルコ7:1〜13

 ファリサイ派や律法学者たちは“神の前の清さ”を保つために“食事の前に手を洗うこと”を大事にしていた。ある日主イエスの弟子たちの中に食事の前に手を洗わない者がいるのを、彼らは見た。律法には定められてはいないが、ファリサイ派や律法学者にとっては、先祖から言い伝えられたとても大事な事。しかし主イエスはその洗わなかった弟子の行いを咎めたりはしなかった。それは、手を洗う事で“神の前の清さ”を保っているとは言えないからである。

 むしろ主イエスは、手を洗う事で神の前に清いと思っている人々に「偽善者」と呼びかけられた。それは彼らがいつの間にか、神よりも人の言い伝えを大事にしていたからである。人の言い伝えさえ守れば、果たして清さは保たれるのか。そんな口先だけの信仰で、やがて神の前に出る時に“私は清い”と大胆にも語る事が出来るのか。

 私たちもこのような口先だけの信仰に近づいていることがあるかもしれない。ローマの信徒への手紙は「心で信じて義とされ、口で言い表して救われる(10章)」と語る。心と体は切り離せない。口だけではいけない。人間まるごと神様に委ね切ってしまうことが大切。ここにこそ真の“神の前の清さ”があるのではないだろうか。

 そしてもう一つ、主イエスが引用されたイザヤ書29章に注目したい。この箇所はイスラエルが神を虚しくしていることを語った後に、イスラエルがやがて神を崇めるものになることを語っている。ここに大きな福音が示されている。まさにイザヤが預言した通り、主イエスの十字架の業によって罪贖われて、昔の人の言い伝えなどまるでなかったかのように、人々は主の救いによって清められるのである。この主の救いに今私たちは与り、神を崇める者とされている。

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